お悩みごとが、多いから A Lot To Be Upset About
by Cassandra Claire (Translation by Nessa F.)
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その後も、スネイプの髭剃りローションは、ちっともマシな香りにはならなかった。魔法生物飼育学の授業では、誰もかもがドラコからじりじりと遠ざかりつつあった。ドラコのいるあたり全体からただよう腐ったゴミのような臭いにもまったく動じていないのは、ハリーだけだった。ハグリッドでさえ、苦しげなようすだった。
「この臭い、どこからしてるのかしら?」
パーバティがラベンダーにささやいていた。
「ニフラーの死骸みたいな悪臭ね」
ドラコは、気にしていないふりをしようと努力していた。その横で、ハリーが数メートル先の何もない草むらをじっと見つめている。
「何、目を丸くしてるんだ、ポッター?」
とうとう、ドラコは尋ねた。きっと訊いたことを後悔するぞ、と思いながら。
「セストラルが集まってきてる」
ハリーは苛立たしげな棒読みの声で言った。
「罪なき者の血に引き寄せられて」
「あー」
ハグリッドが言った。
「そういうわけじゃねえんだ、ハリー……」
彼は困惑して周囲を見回した。
「今日の授業ではセストラルをやるつもりじゃなかった。いつもなら、ゴミ溜めの中身を掻き出すときにしか集まって来ねえのに……」
「運命だ」
ハリーは、いくぶん嬉しそうな声で言った。
ハグリッドは頭を掻いた。
「何か、こいつらを引き寄せとるもんがあるに違いねえ。でも、なんだ……?」
ほかの生徒たちは、心細げにきょろきょろと周囲を見た。
「セストラルって、人間食べたりする?」
不安にかられたラベンダーが尋ねた。
「いいや」
と、ハグリッド。
「喰うのは大体、腐った肉だな……」
「つまり」
ハリーが怒鳴った。
「おまえが悪いんだ、マルフォイ」
「そんなことあるもんか」
ドラコはカッとして反論しようとしたが、言葉を継げずにいるうちに、どっしりとした目に見えないものが胸にのしかかってきて、芝生の上に突き倒され、その場に身体を釘付けにされた。奇怪な生き物の大きな汚らしい濡れた舌に、顔や首を舐めまわされ、ドラコはよだれまみれになった。
「助けてくれ!」
ドラコは黄色い悲鳴をあげた。
「喰われる!」
「喰っちまえよ」
ハリーはセストラルに向かって叫んだ。
「こいつは腐ったネズミみたいな卑怯者だ、喰われて当然さ」
「おまえなんか大嫌いだ、ポッター!」
ドラコはわめいた。
「きみ、気が狂ってるぞ! 誰も気付いていないようだが、ぼくの目は欺けない!」
「彼、ハリーに向かってあんなことを言うべきじゃないわ」
パーバティはひそひそとネビルにささやいた。
「ハリーには、悩まなくちゃいけないことが、たくさんあるんだから、ねえ?」
「こいつをぼくの上からどかしてくれ!」
ドラコは腕を振り回した。
「このままじゃ死んでしまう!」
「死にやしないわ、あなたピンピンしてるもの」
ドラコの耳に、落ち着き払った声が届いた。一瞬ののち、押しつぶされそうなほどだった重みが消え失せ、ペチャペチャした舌の感触もなくなった。気がつくとドラコは、上から覗き込んでいるジニー・ウィーズリーの可愛らしい顔を、よだれでかすんだ目で見上げていた。
「追い払ってあげたわ」
彼女は杖をしまいながら言った。
「でも、次のが来ないうちに城に戻ったほうがいいと思う」
ドラコは、あまりにも呆然としていて、思わずぶしつけに言った。
「ハリー・ポッターは完全に頭のネジがゆるんでしまっている」
ジニーは唇を噛んだ。
「知ってる」
ドラコは半狂乱で彼女の袖口をつかんだ。
「どういうことだよ、知ってるって?」
「彼はひどく精神が錯乱してるわ」
ドラコの手を見下ろしながら、彼女は言った。
「あたし、もう何ヶ月も前からみんなにそう言い続けてるんだけど」
怒涛のように、愛情がドラコの胸に押し寄せた。自分がセストラルのよだれまみれなことも、ポッターの狂気も、すっかり忘れ去っていた。すっ転んでスネイプからもらった髭剃りローションの壜の上に倒れ込み、割ってしまったとバレたら、スネイプにお尻をペンペンされるに違いないことも、すっかり忘れ去っていた。ジニーをクリスマスのダンス・パーティに誘いたい、情熱的な口づけを交わしたい、今この場で、プロポーズしてしまいたい。しかし口を開いたとき、出てきたのは、駄々っ子のような質問の言葉だった。
「なんでこんなところにいるんだよ、ウィーズリー? きみはぼくたちと一緒に魔法生物飼育学の授業を受けてるわけじゃないだろ」
「ええ」
ジニーは言った。
「放課後にデートする約束してたから、クラッブとゴイルを迎えに来ただけ」
ドラコは目を丸くした。
「失礼、聞き間違いをしたみたいだ。クラッブとゴイルって聞こえたんだが」
「二人のうちどっちかを選ぶなんてできなかったの」
ジニーはクスクス笑った。
「だから、両方とつきあうことにしたの!」
ドラコは彼女を見上げた。
「あのまま、ぼくのことなんか放っておいて、セストラルの餌にしてくれたらよかったのに」
かすれた声で言う。
ジニーは彼の肩をポンポンと叩いた。
「またあとでね、ドラコ!」
さえずるように言うと、弾むような足取りで去っていく。ドラコはぼんやりと空を見上げた。身動きもできないくらい、気持ちがどんよりしていた。数分ののち、別の人影が日光をさえぎった。ハリーだ。非常に満足げな表情で、ドラコを見下ろしている。
「おまえにだけは、なりたくないね、マルフォイ」
と、ハリーは言った。
ドラコは、彼の言うことにも一理あると、思わずにはいられなかった。
***
その後の二週間、ドラコはほとんどの時間をベッドに入ったまま、ふさぎ込んで過ごした。ネズミ・チョコを食べながら、苦々しい自己憐憫にもんもんとしていた。もうすぐ開催されるクリスマスのダンス・パーティに、パンジーが誘ってほしいと、あからさまにほのめかして来たにもかかわらず、そんな気分にはなれなかった。ジニーと一緒に行けないのなら、誰とも行きたくない。
たびたび、ドラコは悪夢に苦しめられた。さっそうと洒落込んでパーティにやって来たものの、すでにジニーがそこにいて、ほかの誰かと情熱的にダンスしている夢。スネイプと、マッド‐アイ・ムーディと、はたまたパチル姉妹の片割れと。記念すべきある晩など、夢の中のジニーはレイブンクローのクィディッチ・チーム全員をパートナーにして出席していた。選手たちは交代で、彼女のドレスの胸元にスニッチを落とし込んでいた。
翌日、ドラコは父に手紙を書いた。喧嘩をふっかけるつもりで、ジニー・ウィーズリーに恋をしてしまったと伝えたのだ。あいにく、アズカバンから戻って以来ずっと飲み続けている抗鬱薬のせいで、ルシウスはいくぶん記憶が混濁していた。届いた返信を見るかぎりでは、彼は明らかに、ジニー・ウィーズリーを、彼女の兄であるジョージと混同していた。
大変、不思議なことに、それでもルシウスは、特に反対する気はないようだった。
ジニーが現実には誰と一緒にパーティに行くのか、聞き出して来るように命じてクラッブとゴイルを送り出したが、彼らはなんの情報も得ることなく戻ってきた。二人ともジニーとのデートを堪能したようだったが、彼女は驚くほどダーツが上手い、という以上のことは、どちらもあまり喋らなかった。
ダンス・パーティの当日は、明るく晴れ晴れとした朝で始まった。ドラコはまだ、血の味がするペロペロ・キャンディを舐めながら布団をかぶり、祝宴のためにめかし込んでいるクラッブとゴイルを無視していた。二人は、大広間からドラコのためにケーキをもらって来ようかと申し出たが、ドラコはただ彼らに向かって唸り声をあげただけだった。
まもなく、ドラコはそれを後悔する羽目になった。傷ついた心の痛みは、空腹の苦しみに押し流されて、ささいなものとしか感じられなくなった。もう何日も、ネズミ・チョコしか食べていないのだ。どう考えても、頭がクラクラし始めている。ちらっと大広間に顔を出してビスケットを何枚か、かすめ取るだけだ、と自分に言い聞かせながら、ドラコはベッドから這い出すと、そそくさとジーンズと古いセーターに着替えて室内スリッパに足を突っ込み、ずりずりとパーティ会場へ歩いて行った。
クリスマスの恒例で、大広間へと続く通路のそこかしこに、キラキラ光るクリスタルのつららや歌うブロンズ像のオーナメント、メロディを奏でる甲冑たちが配置され、色鮮やかな緑と赤のリボンがふわふわとただよっていた。広間への両開きの扉のすぐそばにあるテーブルの一つの上に、ハリーが立っているのが目に入った。彼は二羽の白鳥をかたどった氷の彫刻に、せっせと木槌を打ちつけていた。ドラコはうんざりとその姿を見やった。
大広間に入ると、ドラコはまっすぐにご馳走のテーブルへと向かった。顔をうつむけていたのだが、これは裏目に出た。途中で、誰かに正面衝突してしまったのだ。ひらひらした青いローブを身にまとう、赤毛の誰か。
「痛っ!」
ジニー・ウィーズリーが言った。
ドラコは目をしばたいた。
「きみか」
彼女は片眉を上げてみせた。
「あなた、ひどい格好ね」
「分かってる」
ドラコはいくぶん痛快な気分で言った。それから、彼女に注いでいた目を、彼女のパートナーに移した。そして、胃の底にずしんとした衝撃を感じつつ見て取った――パートナーは、彼女の兄のロンだ。孔雀の羽を思わせる緑色のローブを着込み、大きな鼻先をこちらに向けて、見下ろしている。
「とっとと失せろよ、マルフォイ」
ロンは提案した。
ドラコは、震える指先を二人に向けた。
「これは――」
と、宣告する。
「これは、やりすぎだろ!」
二人は、きょとんとした。
「なんのこと?」
ジニーはロンから手を離して、問いかけた。
「きみ! 彼と!」
ドラコは支離滅裂になりそうな自分を必死に抑えながら、ロンに指を突きつけた。
「グリフィンドール生と見境なくデートしているだけでも、充分にひどかった。ああ、でもそれくらいは予想の範囲内さ。それからきみは、レイブンクローに目を移した。そのあとは、ハップルパフ生の誰もかもと! ハップルパフかよ! 普通あり得ないだろ? さらにきみは、追い討ちをかけるようにして、うちの寮のやつらと片っ端からつきあい始めた! ブレーズ! マルコム! クラッブとゴイル! あいつらは「デート」ってどう綴るのかさえ知らないぞ! デート〔※8〕っていうのは地中海地域の乾燥させた果物のことだと思ってるんだからな!」
ジニーはまじまじとドラコを見つめた。
「それがいったい、あなたになんの関係が……」
「ぼくはどうなんだよ?」
ドラコはあらんかぎりの声で怒鳴った。周囲の注目を集めていることは分かっていたが、どうでもよかった。
「ぼくのどこが不満だ? 背が高すぎる? それとも低すぎる? 太りすぎか? 痩せすぎか? 信じがたいほどセクシーすぎる? 髪が多すぎる? 髪が薄すぎる? とにかく、はっきり言ってくれよ、ぼくのどこがいけない?」
「でも」
ジニーは言った。
「あの、あたし、ハリーにも声かけたことないわ」
「そうだな。でも、彼は頭がいかれてる」
「おい!」
ロンが憤慨して言った。
「彼には、悩まなくちゃいけないことが――」
「黙ってろ、ウィーズリー!」
ドラコはロンに向き直った。
「おまけに、おまえだ。この変態。実の妹の尻を追いかけ回すのか。恥を知れ。彼女が自分を抑えるすべを知らないからって、それを利用して――」
「誰が自分を抑えるすべを知らないっていうの!」
ジニーが鋭い声で言った。
「ぼくのどこが変態だ!」
ロンが文句を言った。
「ああ、そうだな、ウィーズリー」
ドラコは冷笑を浮かべた。
「今晩、なんの期待もしてなかったと言ってみろよ」
ジニーが腰に手を当てて言った。
「ドラコ、馬鹿なこと言わないで」
「そうだ」
ロンの顔はギョッとするほどの紫色になっていた。
「なんて馬鹿馬鹿しい言いがかりを……さて、もういいかな。"三本の箒" のマダム・ロスメルタに部屋の鍵を返しに行かないといけないんだ……」
ロンは横歩きで立ち去って行った。
ドラコは、ふたたびジニーを振り返った。怒りの感情は消えつつあった。しかし彼女の顔を見ていると、どうやら今度は彼女のほうが、どんどん怒りをつのらせつつあるようだった。
「ドラコ・マルフォイ」
彼女は噛みつくように言った。
「どうしてあなたには声をかけなかったか、知りたい? なぜって、あなたが馬鹿だからよ。とことん、最低の、どうしようもない馬鹿だから。学校中探したって、あなたほどの大馬鹿男はただ一人だっていないわ」
ドラコは暗澹たる気持ちになったが、顔には出さなかった。頭を高く掲げて、彼女を睨み返した。
「分かったよ。兄貴と幸せに」
そう言うと、つかつかと大広間を出て行った。立ち止まったのは、ご馳走のテーブルの横を通り過ぎるときにチョコレート味のカスタード・プリンを一つ、かすめ取ったときだけだった。
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