2003/8/24

ドラコーディア 〜ドラゴンの心〜

Dracordia (by LittleMaggie)

Translation by Nessa F.


第 16 章 臆病者

(page 1/2)

 二週間が過ぎた。ナルシッサの眠りながら歩きまわる癖はいまだ治らず、かえって頻繁になっていたが、これが異変の原因だということがはっきりしてからは、ジニーもドラコも心穏やかに過ごしていた。今となっては、何もかもつじつまが合った。窓が開かれること、ナルシッサが眠り薬を愛用していること、さらには、ナルシッサが折に触れてよろよろとジニーの部屋にやってくるという、謎めいた現象でさえ。ジニーは黙ったまま暖炉の部屋の二人掛けのソファに座ってドラコの左肩より少し上の空間を無表情に見つめながら、これらのことについて考えをめぐらせていた。


 絵を描いているときのドラコが、すすんでお喋りをすることはめったになかった。自分だけの小さな世界に入り込んでしまうのだ。絵筆と彼自身とイーゼルしか存在しない世界。彼の周囲に引かれた目に見えない境界線を踏み越える権利は、誰にもない。そんな夜長を、ジニーはほかにやることもなく、結局は自分のほうからもドラコを観察しながら過ごすことになるのだった。ジニーの目に映るドラコの顔は、ただ整っているというより、むしろ威厳があると言いたいものだった。王子に相応しいような顔立ちだ。金髪には、濁った色合いがまったく混じっていない。本当に白に近く、クリスマス・ツリーの装飾に使うきらきらした糸を思わせる、繊細なブロンドだった。暖炉の炎の光が反射して、今夜は赤味がかった輝きを帯びている。好みの顔であることを、ジニーは認めざるを得なかった。緊張を解いて絵を描いているときのドラコは、ふだんほど刺々しい表情はしていなかった。


「今、どこ描いてるの?」
 ジニーは尋ねた。


 ドラコは顔を上げてジニーを見た。生気に満ちた瞳がきらめいてジニーの視線とかち合う。そのまま数秒間が過ぎてから、返答があった。
「襟のところ」


 目だけを動かして視界の片隅で、ジニーは白いレースの襟を見下ろした。突如として、そこにある皺を伸ばし、ほつれた糸を裏側に押し込みたくなった。自分の首に注がれるドラコの視線が、皮膚の上に焼きつくように感じられた。


「髪は塗りおわった?」


「見てないのか?」


「ちょっとは。でも、いつも壁に向けて置いてあるから、ちらっとしか見えなかったの」


「髪は仕上がったよ」
 ドラコは、熟練したチアリーダーがバトンを回すときのように、絵筆を指のあいだでくるくると回転させた。それから我に返って、キャンバスの上に絵の具の筋を増やしつづけた。
「でもまだ、本当のきみのようには見えない」


 ジニーは肩をすくめた。
「本物そっくりでなくてもいいんじゃないかと思うわ。絵画の魅力って、そういうところにあるんでしょ」


 ドラコは立ち上がって絵を回転させ、ジニーのほうへ向けた。絵の全体を目にしたジニーは、その見事さにはっと息を呑んだ。ドラコの筆によるジニーは、まるで華麗な火の女神か何かだった。髪は豊かに鮮やかに、実に炎や黄金を紡いだように描かれ、溶岩のごとくうずまいて流れている。大きな目は、一度見たら忘れられないほど写実的で、あらゆる光を反射してきらめいていた。白く滑らかな肌には、ほのかに黄色い輝きが加わって、本当に暖炉の前に座っているようなかんじが出ていた。絵の中のジニーは、見る者に向かって招きかけるような視線を向けており、これから無数の物語を聞かせてくれそうだった。


「気に入ったか?」
 ドラコが問いかけた。


「すごいわ!」


「まだ描き上がってはいないんだ。ベルベットの押しつぶされたところが、それらしくない」
 ドラコは考え込んで、ジニーの髪の部分に、さらにもう一本、赤色で細い筋を加えた。それからジニーの横に来てソファに座り、自分も距離を置いたところから絵を検討しはじめた。ジニーはその顔をじっと見つめた。ドラコは眉を上げたり、目を細めたりしながら、頭の中で絵について思案していた。暖炉の光を反射していると、その両目はグレイには見えなかった。今までそれらを覆っていた灰や暗雲がすべて取り除かれたかのような、澄みわたった青。生まれて初めて何かを観察している赤ん坊を思わせる、無防備な目だった。彼の意識を曇らせるものは、何もない。今のドラコは、不朽の叡智を備えるスフィンクスのように見えた。


「本物のわたしより、きれいだわ」
 ジニーはそっとささやいた。


 ドラコは返答に困って、自分の膝を見下ろした。下を向いていると、その目は睫毛に隠れてジニーからは見えなかった。
「見たとおりに描いたよ」
 しばらくして、ドラコは言った。


「悪い意味で言ったんじゃないの」


「悪い意味には取らなかった」
 ドラコはちらりと視線を上げてジニーを見た。どこか、何かが剥がれ落ちたようなかんじのする目だった。
「きみの髪は、本当にきれいだと思う」


 ジニーはうなずいた。
「でも、ほかの家族のと同じじゃない? ロンとかフレッドとか……」


「いいや」
 ドラコは鋭くさえぎった。ほんのりと、耳に赤みが差した。
「きみは……きみの髪は違う。同じなんかじゃない。きみが、違ってるんだ」


 ジニーはため息をついた。
「そんなに違わないわ。あなたは、わたしをよく知るようになったでしょう。だから、受け入れられるようになったんじゃないかしら。私の家族をもっとよく知るようになれば……」


「きみには、それ以上のものがあるんだ」
 ドラコは言った。
「きみは、すごく描きやすい。きみを構成しているすべてのものから放出されている、空気や感情や雰囲気があるから」


「どういうこと?」


「その鼻の上向き具合――楽観的だ」
 ドラコはにやりと笑った。
「そばかすは、そそっかしい面をあらわしている」


「あらまあ、それはどうも」
 ジニーはおどけて応えた。


「きみの髪は、太陽のコロナみたいだ」
 ドラコは寂しげな表情でイーゼルを見やった。
「きみから、炎が出ているようだ。きみは、この家の中にたくさんの変化をもたらした。なんだかぼくは、物事を修復しはじめられそうな気がしてきている」


「それはよかったわ……」


「実際、ぶち壊しにしているのではなく、修復しているんだという実感があるよ。ここを売りに出したこととか。先祖代々ここで暮らしてきたけど、とにかくもうほかに方法は……」
 ドラコは首を振った。


 ジニーはどうしていいのかわからないまま、ドラコの手を撫でた。


「母も、助けを必要としていると思う。でもたぶん、一番助けを必要としているのは、ぼくだ」
 ドラコはためらうように息を吸った。
「仕事のことや、ほかのあれこれについて。きみが言ってたアルコールの件も、なんとなく意味がわかってきた」


「たまにグラス一杯くらいなら、飲んでもいいと思うわ」
 ジニーはドラコの気分を引き立てようとして言った。悪癖を改めることに思いを馳せた彼が、いきなり暗くなって落ち込んでしまったからだ。


 ドラコは笑みを浮かべた。
「きみは最初に思ったよりも、話しやすいね。初めてきみが誰だかわかったときには、とにかく……」
 彼は肩をすくめた。
「どうしようもないくらい、うっとうしいやつだろうと思ったんだ。とことん無知蒙昧で」


「ちょっとは、うっとうしいということかも」
 ジニーはつぶやいた。


「ここに来てから、一生分の狂気沙汰を見てしまったと思ってるんじゃないか?」


「ここに来ずに、家で過ごしていたほうがよかったとは思わないわ。物事が変化していくのを目の当たりにするのは、いいものよ」


「でも、内心では本当に嫌な気分なんだ」
 ドラコは両手の中に頭を伏せた。
「家族を裏切っているような気がする。大筋では、今まで一族がずっと守ってきたものをすべて、ちょっとした行き詰まりから逃れるためだけに質草にしてしまうようなものだろう」


「ちょっとした行き詰まりなんかじゃないわ。ほんとよ。それに、あなたは家族のために一番いいことをしているんだと、わたしは思う。多少は噂になるかもしれないけど……」


「……いずれはみんな、忘れてしまう」
 ドラコが言葉を継いだ。
「希望どおりであることを祈るよ、とにかく」


「あなたたちがわたしの家に滞在していることは、誰にも知られないようにするわ」


「そう希望するよ」


「あなたの口からその言葉を聞くのは、いいかんじだわ――"希望"」


 もう一度、目が合った。ドラコはとても近いところにいて、それと同時に、とても遠いところにいるようにも思われた。ふたたび彼の上から、真の感情や考えを閉じ込めて通さない壁のような、目に見えないヴェールがかけられていくのが感じられた。
「きみがきれいだと思うのは、本当だ」
 低い声で、ドラコは言った。
「ずっと前に、きみが眠っているところを見たときから、描きたいと思ってた」


 ジニーは赤面した。
「嬉しいわ。ほんとに」
 ドラコの目に晒されて、信じられないくらいに恥じらいの気持ちがつのってきているとでもいうように、その声はどんどん密やかになっていった。ドラコは、ジニーの言葉を聞き取るために、身を乗り出して顔を近づけなければならなかった。
「あなたも、見た目はそんなに悪くないわよ」


「いかにもマルフォイ的だけど」
 と、ドラコが付け足した。


 ジニーは笑った。
「もっと、笑顔を見せればいいのに」


「笑顔? なんだっけな、それは?」
 その目、その顔。突然、ジニーにはドラコしか見えなくなった。その瞬間から、ドラコに関するありとあらゆることが、目につきはじめた。きちんと整えられた頭髪から、一房だけ落ちかかっている髪。瞬きに上下する睫毛を揺らす、ほとんど感じられないほどの微風。


 知らないうちに、唇が触れ合っていた。最初は、違和感があった。合わないパズルのピースを無理矢理につなげようとしているような。次の瞬間、すべてが正しいところに落ち着いた。とても軽い、空気のようなキス。一秒もたたないうちに、ドラコが唇を離した。ジニーは、どちらから先にキスをしたのか、思い出せないことに気付いた。覚えているのは、突然ジニーをドラコに、ドラコをジニーに引き寄せた、不可思議な磁石のような力だけ。


 ジニーは、ドラコがそっと吐き出した息が自分の顎にかかるのを感じた。それから突如として、心臓を氷柱で貫かれたように、現実感がドラコに押し寄せた。
「ああ、まさか……」
 そうささやくドラコの顔に、打ちひしがれた表情が広がっていった。
「なんてことを」
 その瞬間に誰かがこの場にやってきたら、殺人でも犯したのかと思ってしまいそうなほどの後悔ぶりだった。


 呆然として、ドラコは立ち上がった。ジニーはその手を取って、引き止めようとした。ドラコは振り向いて、自分の髪に手を入れてかき乱した。
「すまない」
 やがて、口を開いた。
「どうしてこんな……本当に、どうしてしまったんだろう。きみのことは、なんとも……なんとも思っていない。ごめん、自分でも何を考えていたのか理解できないんだ」


 ジニーはやっとのことでうなずいた。
「わかるわ」
 ジニーの心にも、氷柱が痛々しく刺さっていくのが感じられた。単なる男性の感情のはけ口に過ぎず、一日の終わりにはたったひとりで眠りにつく売春婦は、このような気持ちなのだろうかと思った。単なるひとりよりも苦しい。孤独だ。顔が熱くなるのを自覚しながら、ジニーは膝を曲げて胸元に抱え込んだ。
「完全に、心の底から、わかるわ。あなたって、本当に可哀相」


 部屋から走り去ったジニーの胸の中で、心臓が怒りに揺れていた。もしかしたら本当は、ドラコはジニーを憎からず思っているのかもしれない。もしかしたら、感情を偽っていたのかもしれない。でも、もしそうだとしても、ドラコは意気地なしだ。女の子にキスしておいてから、あんなことを言うなんて! 嘘でも本当でも、意気地なしであることには変わりない。あるいは、もっと悪くすれば、考えなしの無神経。
(でもわたしだって、全然気にしてないわ。ほんとに、あなたのことなんか、なんとも思ってないんだから、ドラコ。おあいこよ)


 しかしそれでは、お腹のなかで虹が砕け散って無数の破片となり、その一つ一つのギザギザの縁がひらひらと舞って、今にも外に出て行こうとしているような気持ちなのは、なぜだろう?